浦上の成り立ちと変遷

キリスト教の広まりと禁教、鎖国

サンタクララ教会 跡  長崎の北側、浦上川沿いの丘陵地帯の農村は戦国時代には主に有馬領でした。
 長崎にキリスト教が布教された頃、有馬領主、有馬晴信も1580年洗礼を受けました。
 この時代に住民のほとんどはキリスト教徒となり現在の大橋付近には、サンタクララ教会が有り住民は深く帰依していきます。やがて長崎が公領となった時、共に公領とされました。

サンタ・クララ教会、秘密聖堂跡


秘密聖堂聖ヨゼフ堂の碑  1614年の禁教令が布告されサンタ・クララ教会は破壊され、住民はそれぞれ表面は改宗を装いキリスト教の信仰を続けていましが、お互いが疑心暗鬼に陥り信仰を打ち明ける事は出来なかった。現在の如己堂付近に住んでいた信徒が仲間に打ち明けやがて全村民を団結させます。神父や宣教師がいない中、住民は組織を作りバスチャン暦を用いて祈りや教義等を伝えました。

秘密聖堂聖ヨゼフ堂跡


秘密聖堂聖聖マリア堂の碑 こうして現在の浦上駅より北側の浦上一帯は潜伏教徒の里となりました。仏教徒に偽装していても踏み絵はつらくまた、葬儀も仏式で行わなければならず非常に心苦しいものでした。

秘密聖堂聖マリア堂跡


秘密聖堂聖フランシスコ・ザベリオ堂の碑  この地区には、武士であった信徒が改宗を拒み、この地に逃れ農民として暮らしていました。仏教徒を装おっていても墓碑の形をキリスト教に準じたりしていて厳しい取り調べを幾度となく受けています。1790年浦上1番崩れ、1839年2番崩れ、1856年3番崩れが起き、最高指導者ら指導的人々が投獄されました。 それでも、7代約250年間に渡りその信仰を維持し続けたのです。

秘密聖堂聖フランシスコ・ザベリオ堂跡


信徒発見からキリスト教禁教令高札の撤去

信徒発見

創建当時の大浦天主堂 1865年1月24日、大浦に天主堂が完成すると3月17日浦上の信徒達は見物人の中に混じり大浦天主堂を訪ねます。浦上の信徒の一人杉本ゆりは、祈りを捧げるプチジャン神父に近づき「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアノゴゾウハドコ?」と囁きます。
 浦上の潜伏キリスト教徒が大浦天主堂を訪ね、キリスト教徒である事を神父に告げたのです。この様子は神父によって詳細に書き綴られフランス外国宣教会にもたらされ、教皇ピオ九世にも届きました。教皇は「東洋の奇蹟」と呼んだといいます。

創建当時の大浦天主堂


浦上4番崩れ

 1867年、浦上の信徒達は、寺受け制度を無視し自葬する等、壇那寺との軋轢がおこり浦上山里村の4郷が、庄屋に壇那寺との関係を断つ事を申し入れます。この事は奉行所の知る所と成り浦上4番崩れと発展しました。
 弱体化していた幕府は各国公使官の抗議を受け捕らえたキリスト教徒を適当な理由で釈放します。
 やがて、徳川幕府は崩壊。時代は明治と変わります。明治政府の神道国教化政策と、約250年続いたキリスト教徒は邪教という謂れなき嫌悪から禁教令は引き継がれ、 浦上地区のキリスト教徒3394人を、名古屋以西の各藩に流配とし改宗を迫りました。
 流配は、1873年2月24日禁教令の高札の撤去まで維持されました。

キリスト教信仰の自由の獲得

 明治政府による流配から解き放され各藩に預けられていた浦上の人々は故郷へ戻る事を得ます。長い人で6年の流配生活は辛苦を極め、その間に613人の尊い命が失われました。
 浦上の信徒らは帰郷と信仰の喜びにあふれていました。日曜日には8km近くの道を大浦天主堂へミサへ出かけます。
 しかし、浦上の信徒の生活環境は、惨憺たる状況てした。流配されていた6年の間に、それまでの住居は売られ、略奪に遭い、火事で燃え尽き、破却されていました。帰郷者2911人のうち1325人は住む家さえ有りません。
 長崎県は、公費により信徒を公役し35カ所に、一人当り一坪の掘っ建て小屋を作り彼らに与えます。あばら屋やバラックの小屋に住み、荒れた畑に種を蒔き僅かな収穫を期待して夜明けから夕暮れまで畑に出て働いて、ようやく生活も落ち着いた1874年、栄養不足の信徒達に赤痢が流行し、患者210名死者8名を出しました。また8月21日には台風の襲来に合い全戸の半数は倒壊し、畑は流され収穫は皆無となりました。
 流刑以前に有った秘密聖堂は破却されていたのでミサ等の宗教的行事には大浦天主堂へ歩いて通わなければなりませんでした。その日の生活にも困窮する信徒には大きな負担になっていました。浦上川河岸の土井の信徒が自分の家の離を提供しました。ここを仮聖堂とし神父が定住し、宗教的行事を行う事となりました。
 1880年、この地域の庄屋であった高谷家の庄屋屋敷が競売にかけられました。信徒達は禁教時代、この庄屋に支配され踏み絵の儀式もこの屋敷で行われていました。
 これらの由緒あるこの地に聖堂の建設を望み油断なく運動し僅か1600円にて購入します。(現在の価値で1200万円程度)
 元庄屋屋敷の建物は傷みが酷く、修築し仮聖堂としました。1902年に本聖堂建設のため東側へ移築し、浦上天主堂完成の1914年まで、仮聖堂として用い続けます。その後教堂として使用したのですが原爆により焼失しました。

十字架山

十字架山

十字架山

 禁教時代、心ならずも行っていた踏み絵の行事は信徒の心に大きな苦悩を残していました。
 1881年、プトー神父はカルワリオの丘に似た辻町の丘に「この丘に十字架を建て、償いと感謝の聖地にしよう」と提案します。信徒らは争って作業に加わり1m角の台石は7日を掛け石神から運び上げました。9月14日を設立の日とし、祈りを捧げています。
 1925年、教皇ピオ12世により十字架山は、西坂と並ぶ長崎の公式巡礼地として指定されました。

浦上天主堂の建設へ

 1888年浦上教区主任司祭のフレノ神父は、浦上に天主堂を建設する事を考え、司教の指示を仰ぎます。 建設費を賄うため信徒達に僅かなお金をだしてもらい、それを積み立てまた、国内や海外の知人に協力してもらいながら1895年着工しました。日清戦争や日露戦争のため社会情勢は厳しく、インフレのため資材費、人件費は高騰し工事は一時中断する事もありました。

創建当時の浦上天主堂

被爆前の浦上天主堂

 フレノ神父は、1911年過労に倒れ逝去しました。続いて主任司祭となったラゲ神父は天主堂の建設を引き継ぎ工事を続行しましたが早急な完成が必要な事を痛感し設計を一部変更して工事を急ぎ1914年、着工より19年を経て浦上天主堂は完成しました。 浦上の信徒が大浦天主堂を訪れキリスト教徒である事を告白して50周年の日に献堂式が行われました。
 その後1925年に双塔が完成し大小2つの鐘が吊るされ鐘の音は浦上の丘に響き渡りました。

原爆による被害とその後の復興

浦上天主堂

現在の浦上天主堂

 1945年8月9日、浦上の松山上空で炸裂した原子爆弾は多くの市民や信徒、約12,000人のうち約8,500人の命を奪い浦上の地を焼土と化し浦上天主堂を破壊しました。
 被爆し焼土と瓦礫に残された信徒達は失意のうちにも生活の再建を試みていました。教会は倒壊していたので、ミサも行えなかったのです。9月になりフランシスコ病院の焼け跡でミサが行われ11月23日に浦上教会の廃墟の前で、合同慰霊祭が深い悲しみの中で行われました。
 被災者と、引き上げ復員の教徒の人々は困難な生活再建の中、1946年12月には仮聖堂を建設します。

浦上天主堂再建

 浦上天主堂再建は浦上の信徒達の願いでした。未だ困難な生活を送りながら1958年天主堂の着工を果たし翌1959年10月には完成しました。
 完成した天主堂は、必要最小限の物で内部の装飾はなく、外部もモルタルの壁面でした。 11月1日、教皇公使フルステンベルグ大司教により聖別されました。
 日本国内にある教会堂の中で、教皇特使により聖別された唯一の天主堂です。

ローマ法王の訪問

 1981年2月25日、教皇ヨハネ・パウロⅡ世は長崎を、浦上天主堂を訪れました。
 キリスト教徒が少い日本の地方都市、長崎へ法王ご自身が訪れて下さった事は、浦上の信徒らにとって非常に光栄な事でした。
 浦上天主堂に於いて法王司式による、叙階式が行なわれました。「この叙階式は、私の日本での使徒的旅行の頂点をなすものです」と、訪日唯一の叙階式の意義を詳しく説明し、「長崎の信徒たちが200年以上も一人の神父もなく、天主堂もなく、公の礼拝もないとう不利な条件にもかかわらず、あらゆる迫害に堪えて信仰を守り続けたこと。私は深い感動をもって、その昔、大浦天主堂で、長崎に着いた宣教師と浦上信徒等との出合いを思い出します」と述べられました。 翌26日松山競技場で吹雪の中、野外ミサが行われました。

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