天正遣欧少年使節

 

 イエズス会巡察使、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父の発案により、九州のキリシタン大名大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチィノの4名の少年を中心とした使節団を1582年長崎港よりローマのバチカンへ送り出した。
 1585年無事にローマ教皇グレゴリウス13世に謁見、ローマ市民権を与えられる。
 1590年天正少年使節団は、長崎港に帰国し1951年聚楽第において豊臣秀吉に拝謁、西洋音楽を披露し秀吉は彼らを気に入り仕官を勧めたが、司祭になる事を決めていたため断った。
 その後、天草にあった修学院、コレジオと進み1593年イエズス会へ入会した。
 司祭となるためにはマカオのコレジオでの修学が必須だったので千々石ミゲルをのぞく3人はマカオのコレジオへ移り1608年3人は司祭に叙階された
 千々石ミゲルは渡欧の際キリスト教徒による奴隷制度などを目の当たりにするなどキリスト教への疑問を感じていた様子も見られる。1601年棄教を宣言しイエズス会より除名処分を受けた。従兄弟である大村善前が大村藩を立藩すると藩士として召し出され伊木力に600石の領地を与えられた。大村善前の棄教を後押ししたりドミニコ会の領内での布教を認めなかったりした。
 やがて藩政から遠ざけられ、親キリシタン派裏切り者として命を狙われた。晩年の行動は謎だか領内で隠棲した物と思われる。2003年に彼の墓所と思われる石碑が伊木力で発見されている。
 伊東マンショは小倉を拠点に活動していたが1611年に小倉を追放され中津そして長崎へ移った長崎のコレジオで教えていたが1612年病死した。享年43歳
 中浦ジュリアンは博多で活動していたが、1613年領主がキリシタンを弾圧し始めたため追われて長崎へ移った。1614年江戸幕府がキリシタン追放令を発布したので、殉教覚悟で地下に潜伏し九州各地を回りながら活動を続けたが、1632年小倉で捕縛され、長崎へ送られた。1633年穴吊りの刑に処せられ殉教した。享年65歳
 2007年教皇ベネディクト16世は中浦ジュリアンを福者にする事を発表し2008年長崎において他の187名と共に列福式が行われた。
 原マルティノは、語学の才能があり宣教活動の傍ら洋書の翻訳、出版活動にも携わっていた。
又、渉外交渉もうまく当時の日本人司祭として、よく知られた存在だった。
 キリシタン追放令を受けて1614年マカオに出国。マカオでも翻訳や出版に携わり後進の援助などをしていた。1629年死去。享年60歳前後

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