外海の子孫達

五島列島

 1563年、五島の領主宇久純定が、横瀬のイエズス会に医師の派遣を要請。その後、1566年、ルイス・デ・アルメイダ神父が五島を訪れ医療と布教活動を行う。
 領主が変わると迫害を受け、1591年頃、宣教師は追放されました。

 1797年五島藩は、大村藩に農民の移住を要請し、それに答え移住した者の多くが外海の潜伏キリシタンだったという。およそ3,000人の入植者があり入植地の状況は厳しかったが、彼らはバスチャン暦を携え神父の再来を待ち続けました。
 1865年、大浦天主堂が完成し浦上の信徒が神父を訪ねて間もなく、五島若松島の青年が神父を訪ねました。こうして五島列島に神父の再来が伝えられ、宣教師は危険を冒して五島列島を訪れました。

 1861年(明治元年)、久賀島の信徒が代官にキリスト教徒である事を表明し、その事がもとで五島崩れが起りました。
 福江藩によりおよそ200人余りの信徒が捕らえられ拷問が行われました。死者43人に及んだのです。
 1873年、禁教令の高札の撤去により信仰が自由になると宣教師が訪れ、カトリックへの復活が促され各地に教会が出来、教会堂が信徒の労働奉仕により建設されました。また、この地方も貧しく捨て子や間引きが行われていて、その子らを救済するため浦上十字会を手本とし、また協力を得て「おんな部屋」と呼ばれる女性の共同体が作られました。
 現在、五島のキリスト教徒の多くは外海地方に祖先を持つ者が多い。五島地方には50の教会堂が有ります。

平戸・田平

 平戸は長崎が開港する以前、ヨーロッパ貿易の拠点であり、フランシスコ・ザビエルが訪れ領主松浦隆信が布教活動を許可したので、家臣、領民に多くの信徒がいました。
 しかし、キリスト教徒である家臣の有力者が亡くなり1587年の伴天連追放令を受けて藩内各地のセミナリヨ等を生月島に移転しました。領主が代わり鎮信が領主と成ると1599年一族、家臣に棄教を命じました。
 1614年の禁教令後、厳しい取り締まりを行い多くの殉教者を出しました。また、キリスト教関連の物を破壊、海上投棄し、信徒の疑いが有る者を生月や島南部に移し監視しました。こうして幕府に対してキリスト教徒がいない事を証明しました。
 信徒達は、共同体を作り仏教徒に偽装し信仰を守り続けました。その後、外海や外海から五島を経て平戸へ移住した信徒の人々も巧く偽装し潜伏しました。
 禁教令の高札の撤去後、フランス宣教師会の活動により、多くの潜伏するキリシタンはカトリック教会に復帰しましたが、隠れキリシタンとして潜伏時代の信仰形態を守り、カトリック教会に復帰しない人々もいます。

 ド・ロ神父が出津で活動を始めて外海地方の置かれた状況に対処するため、移住計画を立てました。そこで、平戸や田平に土地を購入し16家族93人を移住させました。
 現在、この地区には15の教会堂が有り、外海を祖先とする信徒も多い

大村

 この街はかつて大村純忠の居城があり多くの信徒と教会が存在しました。しかし、郡崩れなど激しい弾圧が続きキリスト教徒は根絶されました。禁教令の高札の撤去後ド・ロ神父は現在の原口に土地を求め外海からの移住者に与えました。また、五島等外海をルーツとする人々が移住し教会堂を建設しました。その後この地は1941年海軍航空工廠の拡張に伴い軍の買い上げとなります。教会は大村市徳泉川内内に移転、終戦と共に現在地を求め植松教会を建設しました。

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