出津とド・ロ神父

出津の状況

 長崎県の西彼半島西岸地方を総称して外海という。この地方は、断層海岸で急斜面が、そのまま海へ落ち込む険しい地形をなしており、陸の孤島となっていました。耕作に向く平地は少なく、人々は急な斜面に石積みの段々畑を作り、又、港となる入り江も少なく、河口を利用し小舟を使った漁を営み、貧しい暮らしを営んでいました。
 江戸時代、殆どの地域は大村藩の領地で、佐賀鍋島藩の飛び地も存在していました。
 大村純忠の時代、領主純忠の推奨もあり、活発な布教活動の成果として殆どの住民がキリスト教に入信しました。

出津遠景

 戦国時代が終わり、豊臣秀吉、徳川家康の全国統一が確立すると、時代はキリシタン禁教へと傾いていきました。
 大村藩は、1605年に初代藩主大村善前が日蓮宗に改宗し、領内のキリシタンを弾圧しました。1614年の徳川幕府のキリシタン禁教の布告後、厳しい弾圧を行い、大村湾湾岸地域の領地からキリシタンを排除しています。その中で交通の不便な外海地域は弾圧も他の地域よりは緩やかで、また、潜伏キリシタンの人々も巧く偽装していて、長く厳しい時代を信仰の明かりを灯し続けました。
 1873年の高札撤去の太政官布告による事実上の解禁。実に7代約250年の長い弾圧でした。

ド・ロ神父

子供に懐かれるド・ロ神父

 マルコ・マリ・ド・ロ神父はフランス、ノルマンディ地方、ウォスロールの貴族の次男として1840年3月26日、ウォの館に生まれました。幼少の頃より父ノルベールにより、フロンティア精神と独創性を育てられました。農地の耕作や牧場の仕事、大工仕事や裁縫まで実際にやらせ、家庭教師を雇い様々な学問を学ばせています。躾も厳しいものでした。
 1860年、20歳の時オルレアン神学校に入学、宣教師としての勉強を始める。1年後病気のため退学。
 故郷で神学生としての勉強を続け、1865年神父として叙階され、聖ジュリアン教会の助任司祭として、福祉担当神父の仕事をし、ここで医学、薬学の基礎知識を身につけました。
 東洋布教の志やみ難く、1867年パリ外国宣教師会に入会する。

 プチジャン司教は、パリ宣教師会で印刷技術を持つ神父、死を賭して日本布教に当る神父を求めました。真っ先に応じたのがド・ロ神父でした。すくに印刷技術を学ぶため印刷所に通い技術を習得しました。
 1868年6月7日長崎の港に、プチジャン司教と共に上陸。

出津へ

 ド・ロ神父が来日した時は未だ禁教令は解けていず、浦上の信徒達は流配され長崎には居ませんでした。神父は長崎や横浜で印刷の仕事をしていました。禁教が解け浦上の信徒達が流配から戻るとド・ロ神父も長崎へもどり医療活動等をしていました。1877年、出津の司祭をまかされました。
 ドロ神父は主任司祭として出津に定住、出津は耕地少なく、仕事も無く、貧しい半農半漁の集落でした。海難で男手を失った女性や、仕事を持たない娘など貧しい女性に、自力で生きて行けるよう仕事を授けようとしました。

出津での活動

 赴任後すぐに山下茂左衛門宅隠居所跡に、大石シゲらを収容し、授産場を設けます。後に大石甚五郎宅を増築して、織物、染色などの技術を教えました。また、大石シゲを浦上十字会に派遣して岩永マキらの孤児養育と修道院の在り方を修練させました。
 ド・ロ神父は、浦上十字会をモデルとして、聖ヨゼフ修道院と、伝導婦養成所を創立しました。

ド・ロ神父記念館

救助院の設立

救助院

 1881年旧庄屋屋敷を買い取り救助院を設立しました。
 救助院では、製粉、機織り、裁縫、パン、マカロニ、搾油などの技術を教え、日記、算術などの学業も授けました。
 救助院は2階立てで1階は食品、染色などの工場、2階は織物等の工場と、修道院になっていた。また、救助院の人々のために、洋服で制服の作業着を布から作り支給しました。機織機もフランスから20台輸入し又、メリヤス織機等も、海外から輸入している。製品は長崎の外国人や、国内向けに販売していました。
 

 救助院の経営母体の聖ヨゼフ会の修道女たちの生活は苦しく、農業と救助院の作業で、支えられていた。ド・ロ神父は、四株や変岳という所に土地をもとめ、開墾し、修道院の生活基盤としました。
 この地域には学校などの、教育施設も無かったので、1879年に、三重、黒崎、神之浦に学校を設立し、1886年、出津救助院の隣に保育所を設けました。

出津教会の建設

 1881年、出津教会の建設に取りかかりました。風が強い出津に合わせ、高さを抑えた作りになっています。設計と現場管理を ド・ロ神父が行い大工を指導しながら建設されました。
 1882年3月19日完成。当初は鐘塔の無い寄せ棟の教会でした。その後1891年と、1909年に増築され今の形になりました。

出津教会

医療活動

 1886年、出津に診療所を開設。前年外海地方に腸チフスが蔓延しが、出津に診療所は無く、 ド・ロ神父は、医療活動も行いました。自分で薬を調合し配布していたが医師資格を持たなかったので、医師を雇い診療に当っていました。
 様々な病気や怪我の診療を行い多くの医療器具や薬品などを輸入していました。
 1889年長崎、佐賀に悪性の赤痢が流行し、外海地方にも広がりました。ド・ロ神父は避難病舎を急造し患者を隔離し、医師を雇って治療に当たらせるとともに、救護隊を編成し、患者の輸送隔離、死者の埋葬、大小便の処理や消毒に当らせました。また、聖ヨゼフ会の修道女たちは看護人として働きました。
 ド・ロ神父も毎日病院に来て看護や治療の指導をし掃除を指揮しながら自ら働いてました。

大野教会の建設

 出津の北部に大野という部落が有りそこの信徒のため、1893年教会を建設しました。後にド・ロ壁といわれる石積みの壁を持つ平屋の教会です。

大野教会

移住計画と実施

 ド・ロ神父は、耕作地が少なく零細な農家が多い外海地方で、子供に分割すると農業で生活する事が出来なくなる状況に対処するため、各地への住民の移住を計画しました。田平に1.03haあまりの土地を購入し4家族25人を移住させました。翌年は平戸の紐差に1.23haを購入4家族23人を移住させました。こうして6.63haあまりを田平、平戸に購入し16家族93人を移住させました。
 その他北海道や九州各地に移住計画を立て計画は失敗しましたが、田平には自費で移住する人もあり、1918年、鉄川与助設計施工の煉瓦作りの教会が建てられました。
 又、大村でも竹松郷に1haの畑を購入し移住者に与え救護院を設立、大村の子供達の養育や、浦上養育院で育った優秀な少年達に高等教育を受けさせるため、片岡与吉神父に預けて学校へ通わせました。後に原口町首塚付近に、竹松教会が建てられましたが、海軍航空工廠拡張に伴い買い上げられました。
 教会は何度か移転し現在植松教会となっています。

司教館建設、転落、そして死去

 ド・ロ神父の苦労も大きく1911年に重病を患い少し回復した所で大浦の司教館に移りました。そして健康を取り戻すと司教館の改築に取りかかり1914年完成間近の司教館の足場から転落、命綱を使用していて転落はしなかったのですが、持病が悪化し1914年11月7日大浦司教館において死去しました。74歳でした。

旧司教館

出津に眠る

ド・ロ神父の旧墓標

 遺骸は神父の遺志により、出津に運ばれ自ら設営した野道の共同墓地に葬られました。
 ド・ロ神父は父親より譲り受けた巨額の資産を長崎での印刷機、浦上での救護活動の医薬品、岩永マキらの孤児院の基盤となる農地、長崎や外海地域での様々な建築物の費用、機織機等の機械、医薬品、等多くの資材。また、修道院のための用地や畑用地、また田平や平戸、大村への入植用地の購入費等、惜しげもなく投じました。
 ド・ロ神父が、浦上や外海の人々に与えた恩恵は非常に大きく、また深いものだったのです。

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