史跡と遺跡

長崎の殉教地・遺跡と史跡


日本26聖人殉教地
(1950年バチカン公式巡礼地)

大浦天主堂

サントドミンゴ教会跡

ミゼリコルディア跡

トードス・オス・サントス教会跡

被昇天のサンタマリア教会跡

サン・ジョアン教会跡

ルイス・デ・アルメイダ記念

サン・ラザロ病院跡(山王神社)

サン・フランシスコ教会跡

山のサンタマリア教会跡

南蛮船来航の波止場跡

浦上の史跡と遺跡


浦上天主堂

十字架山
(1950年バチカン公式巡礼地)

如己堂(帳方屋敷跡)

秘密教会聖フランシスコ・ザベリオ堂跡

秘密教会聖ヨゼフ堂跡

秘密教会聖マリア堂跡

サンタ・クララ教会跡

岩永マキの像

十字会修道院

お告げのマリア修道会

岩永マキらを合葬したマリア会墓地

高木仙右衛門の墓

出津の遺跡と史跡


出津教会堂

ド・ロ神父旧墓碑

大野教会

出津救助院

ド・ロ神父の像

ド・ロ神父の大平作業所跡

バスチャン屋敷跡

枯松神社

出津の風景

大村の史跡と遺跡


三城城趾

大村純忠終焉の地

玖島城

仏の谷の洞窟

斬罪所跡

獄門所跡

胴塚

首塚

鈴田牢獄跡

帯取殉教地

今富キリシタン墓碑

千々石ミゲルの物と思われる墓碑

横瀬浦の史跡


ルイスフロイス像

横瀬浦教会跡

純忠居館

殉教地、石碑の説明の補足

聖ドミンゴ教会跡

 1609年ドミニコ会モラレス神父が鹿児島より移築した教会。小学校の立て替えにより遺構発掘、現在公開中。

ミゼリコルディア跡

 1583年、隣人愛を実践する信徒共同体 ポルトガル語で慈悲を意味するミゼリコルディアの組が結成され医療活動、孤児の養育貧者の救済が行われていた。
 1614年の禁教令でも見逃されて来たが1620年破壊された。活動は、1627年まで続けられたが、組頭が火刑により殉教し解散した。

トードス・オス・サントス教会跡

 現在の春徳寺に、1569年長崎の最初の教会。ルイス・デ・アルメイダは長崎では、ここを拠点に活動しコレジョ、セミナリヨも作られた。1614年の禁教令のときも破壊を免れた。高山右近らが国外追放前にこの教会で祈ったという。その後壊され、1630年に春徳寺が建設された。教会時代の井戸が残っている。

被昇天のサンタ・マリア教会

 現在の県庁。1571年、岬の先端に小さな教会が建ち岬の教会と呼ばれた。
 日本司教の仮司教座「被昇天のサンタ・マリア教会」が1601年に建てられ1603年には時計塔が建てられ時を告げる3つの鐘がチャイムを響かせた。
 又、イエズス会日本管区長館、コレジョ、鋳造活字印刷所、日本司教区大神学校、セミナリヨが有り、長崎の町の中心であった。
 1614年、ほかの教会とともに破壊され西奉行所が建つ。

サンジョアン教会跡

 1591年にローケ・デ・メロベレイラがこの地にザン・ラザロ病院を開いた。傍らにフランシスコ会が壮大なサンジョアン・バウチスタ教会を建てた。
 岬の被昇天のマリア教会、トードス・オス・サントス教会とともに長崎の三大教会といわれた。教会は1614年、病院は1619年に破壊された。1620年大村本経寺の住職日恵が本蓮寺を開創。長崎の三大寺院といわれた。

ルイス・デ・アルメイダ渡来記念のプレート

 1552年来日豊後に留まり病院を開設また、大分においてミゼリコルディアを組織し福祉活動を行った。また、九州各地を回り医療活動を行う。
 長崎開港以前の1567年、ルイス・デ・アルメイダはこの地を訪れ布教活動を行い、トードス・オス・サントス教会を建てた。

サン・フランシスコ教会跡

 1611年アスンシオン神父により建て始められたが完成前の1614年破壊された。
 その後桜町牢獄となり中浦ジュリアンや金鍔次兵衛等多くのキリシタンが投獄され棄教を強制された。

山のサンタマリア教会跡

 設立年は分からず碑文では1603年再建とある。その後大目付井上筑後守屋敷になり1673年長崎奉行所立山役所となる。

南蛮船来航の波止場

 開港当時の波止場跡。現在は埋め立てが進んで海岸線まで距離が有るが、当時はここが海岸線と考えられる。開港当時の長崎は細い岬だった。丘の上は麦畑が広がっていたと考えられている。
 水の便に乏しく人が住むのに適さない場所で、開港後も水の供給に苦労していた。火災が起きると消火できず大火に成る事が多かった。

帳方屋敷跡

 キリスト教が禁教になって浦上の人々は周りの人々にさえキリスト教の事を言い出せずにいた。
サンタクララ教会で雑務をしていた孫右衛門は、村人達を説得し全村民を団結させた。また、3つの役職、
「帳方」、浦上に一人いてバスチャン暦から教会行事の日を繰り出し、また祈りや教義の伝承をする役。
「水方」、各郷にいて帳方の伝令を聞き役に伝えまた、洗礼を授ける。
「聞役」、各集落にいて信者を掌握し水方の伝令を各人に伝える。
各役を設け250年に及ぶ長い間、神父不在で信仰を守った。浦上三番崩れで水方一人を除き三役すべてが捕縛された。

浦上の秘密教会

 徳川幕府末期の1865年に作られた秘密教会。
 大浦天主堂から神父が秘密裏に訪れ、村民に教理を教え、洗礼を授け、ミサを行っていた。1867年7月15日早朝、一斉に奉行所の手入れが行われ、男女68人が桜町牢へ入れられた。浦上四番崩れの始まりである。
この弾圧に対して、長崎在留の外国人より奉行所に相次いで抗議が有り、長崎奉行では判断できず幕府と各国公使の談判になった。しかし、幕府倒壊し68名は解き放された。

大野教会

 1599年、平戸領の弾圧を逃れた籠手田一族の者が潜伏したと伝えられる大野に、1893年、ド・ロ神父が信徒と共に私財を投じて建てた教会。自然石を積み上げたドロ壁を持つ。

大平作業所跡

 ド・ロ神父は、地域の貧困を救うため、また、聖ヨゼフ修道院の自立のために、原野を買い求め開墾し麦やお茶等を栽培させた。既にある畑は、持ち主の生活の基盤だからと、原野を買い開墾した。麦の種もフランスから優良品種を輸入し栽培させた。
 ここもそういう開墾地のひとつで、煉瓦とド・ロ壁を持ち神父は馬に乗り訪れた。

バスチャン屋敷

 バスチャンは、現長崎市南部、平山辺りの治兵衛という伝道師だという。将軍家光の頃、三重樫山の赤岳に住み、信徒達に信仰を説き洗礼を授けていたという。
 厳しさを増した弾圧から逃れるため外海地方を転々とし、この地に潜伏した。しかし、煮炊きの煙を発見され捕縛された。長崎桜牢に3年3ヶ月囚われ、度重なる拷問の末、斬首されたという。
 師のサン・ジワンから1634年の教会歴をもとに、日本語による教会祝日表を編纂した。この教会祝日表は多くの潜伏するキリシタンに伝わり、長い潜伏の間、信仰の規範として受け継がれた。
 また、「バスチャンの予言」といわれる物を残している。

バスチャンの予言

①お前たちを7代までは我が子と見なすが、その後は救霊は難しくなるだろう。
②コンヘソーロ(告白を聞く司祭)が、大きな黒船に乗って来て、毎週でも告白ができるようになる。
③キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになる。
④ゼンチョウ(異教徒)に道で出会ったときは、先方が道を譲るようになる。
というもので、潜伏する教徒達の信仰の支えとなった。

枯松神社

 長崎市下黒崎町の山中にある神社。バスチャンの師であるサンジワンの墓の上に建つという。
 神社のなかには、「サンジワン枯松神社」と刻まれた石柱が置かれている。キリシタン神社と呼ばれ特異な信仰形態を持つ。
 禁教時代、この地区の旦那寺であった樫山の天福寺は、キリスト教徒である事を知りながらこの地区の住民を保護した。
 禁教令が解かれた後、カトリック教会に復帰する者、仏教徒と成った者、隠れキリシタンとして禁教時代の信仰の形態を守る者に分れ、わだかまりが残った。
 2000年当時のカトリック黒崎教会野下千年神父は、この三者が心寄せ合うこの場所で、わだかまりが解ければと三者に呼びかけ「枯松神社祭実行委員会」が組織された。
 毎年11月3日に「サンジワン枯松神社祭」が行われ、黒崎カトリック教会の司祭によるミサ、曹洞宗天福寺住職による法話、隠れキリシタンの「オラショ」、が行われている。

三城城趾

 大村純忠が築いた城、1564年築城。それ迄は久原に簡単な平城が有ったが戦陣の防御に向かなかったので、平地から約30m程度でも眺望の効く丘に城を構えた。石垣はなく急な崖と空堀の城。
1571年の松浦氏、西郷氏の協同による急襲では、陥落寸前の状態まで追い込まれたが何とか持ちこたえた。現在長崎県忠霊塔が有る。

玖島城

 大村善前が築いた城。1596年着工,99年の完成。1614年加藤清正の意見を取り入れ、1年余りの改修工事を行う。大村善前は、第二次朝鮮出兵に出陣。各地を転戦し海岸に築かれた城は攻略しにくい事に気づきこの地を選び築城した。
 現在史跡公園として整備され、桜と菖蒲の花の名所として多くの人が訪れる。

獄門所

 現在の松並公民館の庭にある。当時この道は大道りであり往来は激しく並べられた首はいやでも目に入り見せしめの効果は高かった。

胴塚

 百人を超す人々の胴体はこの地に埋められた。昭和の初め確認に掘られたときは、大量の人骨が発見されている。

首塚

 首と胴とを離して埋めた理由は、キリシタンの妖術でふただひ蘇るのではないかと思われていた為。半ば本気で信じられていた。

鈴田牢跡

 この牢は1619年から1622年まで長崎奉行所で捕縛された外国人宣教師が投獄されていた。
 1614年の宣教師追放令以後潜伏し布教活動を行っていた外国人宣教師は、幕府により次々と捕縛された。そして、この地に在った牢獄。幅4.6m奥行き6.6mの広さを周囲、天井を角材で囲まれた鳥かごのような牢獄で、三十数名が入れられた。横たわる事も身動きさえままならない状態であったが、敬虔な祈りの声や賛美歌が耐えなかったと伝えられる。
 1622年、スピノラ神父ら22名は長崎へ護送され9月10日西坂の丘で処刑され、また、フランコ神父ら数名も放虎原斬罪所で処刑された。

帯取り殉教地

 1617年5月22日ペトロ神父とマシャード神父は、この地で処刑された。大村で最初の殉教だった。

今富キリシタン墓碑

 大村市内に奇跡的に残された貴重な遺跡のひとつ。大村純忠に仕えた重臣の一人一瀬相模越智栄正の墓である。1576年没享年83歳
 栄正の子栄相は頭頂部に干十字架を刻んだ蒲鉾型の墓碑を建てたが、キリスト教の弾圧が強まる中、仏教を装うため名宣寺に法名を乞い刻み、墓石を立てて破壊を免れた。キリシタン墓碑としては国内で最も古いとされている。

千々石ミゲルの物と思われる墓碑

 天正遣欧少年使節の一人。有馬領主鎮貴の名代として使節に加わる。大村純忠の甥にあたる。千々石ミゲルは渡欧の際キリスト教徒による奴隷制度などを目の当たりにするなどキリスト教への疑問を感じていた様子も見られる。1601年棄教を宣言しイエズス会より除名処分を受けた。従兄弟である大村善前が大村藩を立藩すると藩士として召し出され伊木力に600石の領地を与えられた。大村善前の棄教を後押ししたりドミニコ会の領内での布教を認めなかったりした。やがて藩政から遠ざけられ、親キリシタン派より裏切り者として命を狙われた。晩年の行動は謎だか領内で隠棲した物と思われる。2003年に彼の墓所と思われる石碑が伊木力で発見されている。

ルイス・フロイスの記念像

 1563年、ルイス・フロイスは横瀬浦に上陸した。ここで日本語を学び布教活動を開始する。その後京都で織田信長と会見、信任を得て畿内での布教を許される。その後九州で活動し巡察使アレッサンドロ・バリニャーノの通訳として帯同し安土城で信長に拝謁している。1583年、時の総長の命で日本におけるイエズス会の活動の記録を残すよう命じられる。全国を巡り見聞を広め記録を残した。この記録が「日本史」と呼ばれる。1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令により畿内を去り長崎に落ち着く。
 天正遣欧少年使節の帰国と共にヴァリニャーノが再来日すると共に聚楽第にて秀吉と会見した。 1597年に「二十六聖人殉教記録」を残した。同年7月8日死去、享年65歳。
 彼の残した広範囲に渡る多くの著作は、この当時の日本を知る貴重な資料となっている。

横瀬浦教会跡

 1562年横瀬浦の開港と共に作られた教会堂。領主大村純忠はここで洗礼を受けた。よく63年後藤貴明らの襲撃により灰燼と帰した。

横瀬浦純忠居館跡

 大村純忠は開港後よくこの地を訪れていて宣教師との会話を楽しんだ。その為に教会堂近くのここに居館を作り宿泊していた。

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