平戸から横瀬浦、福田、そして長崎へ。

開港まで

横瀬浦の風景

横瀬浦の教会跡の丘を望む風景

 1550年に開港し、ポルトガルやオランダと貿易を行っていた平戸で、1561年ポルトガル人殺傷事件が起こり、彼らは安全な港を探していました。1562年、大村純忠は、自領の横瀬浦の提供を申し出、純忠自身も宣教師からキリスト教について学んだ後、家臣とともにコスメデ・トーレス神父から洗礼を受けました。
 しかし、1563年、横瀬浦は、大村より養子に出された武雄の後藤貴明や純忠に反感を持つ家来等から焼き討に遭いました。
 大村純忠は、当時は寒村の福田港を開港しポルトガルに提供したが、福田港は水深も浅く布教活動にも不便だったのでイエズス会宣教師らは、長崎港の水深などを調べ、良港だという事がわかると長崎港を開港するよう大村純忠に求めました。

 長崎は、1567年当時人口1500人程度の小さな寒村にすぎませんでした。 現在の市役所付近から県庁にかけての丘は当時一面の麦畑でした。 ルイス・デ・アルメイダがこの地を訪れ1年ほど布教活動を行い500人ほどの信徒を獲得していました。

ルイス・デ・アルメイダ記念プレート

長崎県庁塀の外壁に掲示してある開港時の港のイラスト 大村純忠は、1570年この港を貿易港として拓き、狭い岬に六つの町を作りました。

県庁塀外壁の開港時のイラスト

キリスト教と共に発展する長崎

岬の教会跡 現在長崎県庁

イエズス会本部跡

 大村純忠は、ポルトガル貿易に多大な影響を与えるイエズス会に十分な便宜を図り、また、周囲の勢力から長崎を守るため、1580年イエズス会知行地としました。後に「日本の小ローマ長崎」と言われる日本でのキリスト教の中心地の始まりです。 現在の県庁の場所には、日本司教の仮司教座「被昇天のサンタ・マリア教会」が1601年に建てられ1603年には時計塔が建てられ時を告げる3つの鐘がチャイムを響かせました。又、イエズス会日本管区長館、コレジョ、鋳造活字印刷所、日本司教区大神学校、セミナリヨが有り、長崎の町の中心でした。

長崎最初の教会トードス・オス・サントス教会跡 現在の春徳寺 やがて、人口2万人の町に広がり住民のほとんどがキリスト教徒で、トードス・オスサントス教会、サン・ジョアン・バウチスタ教会、山のサンタ・マリア教会、サン・ペドロ教会、サン・パウロ教会、ミゼルコルディヤ本部教会、サンチャゴ教会、サン・ミゲル教会、サン・ドミンゴ教会、サン・アウグスチノ教会、サン・アントニオ教会、サン・フランシスコ教会、サンタ・クララ教会、サン・ロレンソ教会、等多くの教会が有りました。

トードス・オス・サントス教会跡 現春徳寺


波止場跡の碑 1582年には天正少年使節団がこの港より出港しました。1587年の キリスト教の禁教令、 伴天連追放令布告後も、大きな混乱はなかったが、1588年豊臣秀吉は長崎を直轄領とし長崎の海外貿易を独占しました。
 1590年、天正少年使節団が帰港し豊臣秀吉に拝謁、歓待されました。

開港当時の波止場跡

キリスト教迫害の時代

豊臣秀吉の弾圧

 1596年当時、豊臣秀吉は情緒不安定であり、サン・フェリペ号事件や1587年に布告した禁教令、伴天連追放令にも関わらず、フランシスコ会などが精力的な布教活動を行っていたので、再度キリスト教の禁教令、 伴天連追放令を布告しました。合せて、フランシスコ会の宣教師とその指導下にあるキリスト教徒全員の処刑を命じました。

26聖人の殉教

山王神社

サン・ラザロ病院付属教会跡 現山王神社

 京都と大阪において捕縛された24人の神父、修道士、信徒、それに教会がお世話をするようにと付けた2人の信徒の26人は、およそ800kmの道のりを歩いて長崎へ護送されました。1597年2月4日厳寒のなか、東彼杵の港より大村湾を時津の港へと渡り、船の上で夜明けを待ち時津、浦上の各街道を通りイエズス会のサン・ラザロ病院と付属教会(現在の山王神社)に立ち寄り、ポルトガル人や信者と会い、別れを告げて西坂へと向かいました。

日本26聖人記念碑

日本26聖人記念碑

 

1597年2月5日西坂において十字架による磔、獄門となり80日間さらされました。この処刑が日本の統治者によるキリスト教弾圧の最初の殉教となりました。
  1622年9月10日には、大村鈴田牢や長崎の桜町牢に捕われていた宣教師や司祭、修道士らと彼らを匿っていた人々をこの地に於いて、火刑、斬首により55人が殉教し元和の大殉教と呼ばれる処刑が行われました。
 1950年バチカン公式巡礼地指定。1981年ヨハネ・パウロⅡ世巡礼「至福の丘」と命名。

日本26聖人記念聖堂 現在、西坂公園となり日本二十六聖人記念碑、殉教記念聖堂、イエズス会修道院がある。

聖フィリッポ・デ・ヘスス教会

鎖国体制の始まり

徳川幕府の弾圧

サンジョアン教会跡

サン・ジョアン・バプチスタ教会跡 現本蓮寺

 1598年、豊臣秀吉が亡くなると1603年徳川幕府開府、秀吉に引き続き長崎を公領としました。
 1610年、マードレ・デ・デウス号事件が長崎港港外、神の島沖で起こりました。この事件の背景には、貿易の利権を巡るヨーロッパ各国の対立があります。
 事件後、徳川家康との折衝に当たっていた有能なイエズス会のロドリゲスがマカオに去りプロテスタントのオランダ人に仕えていたスコットランド人ウイリアム・アダムス(三浦按針)が当たる事になりました。

 

 1611年、スペイン人が沿岸の測量をする許可を得ていました。これをウイリアム・アダムスは、「測量は日本征服の意図が有ってやっている事で、スペインが征服した国々は皆こういう経過を辿った」と家康に説いたという。キリスト教に疑念を抱いていた家康はこの言葉でスペイン・ポルトガル両国人に怒りだし京都地方の教会の破壊命令を出しました。又、オランダ国王が家康に送った公文書でも「神父がスペイン・ポルトガルの手先となって国を奪い取る事がある」と述べている。このような誹謗中傷が家康のキリスト教に対する印象を非常に悪い物としました。
 このような状況の中、1614年幕府は全国キリスト教禁教令・宣教師らの国外追放令を布告しました。

徳川幕府の禁教令

ミゼリコルディア跡  徳川幕府の国外追放令布告後追放ため、長崎には全国から多数の宣教師や高山右近等日本人信徒が集まりそして、1614年11月7日・8日にマカオやマニラへ出航していきました。
 そして、長崎の教会は九州各藩の武士によってミゼリコルディヤを除きすべて破壊されました。 年ごとに弾圧は厳しさを増し1620年ミゼリコルディヤも破壊されました。

ミゼリコルディヤ跡

元和の大殉教

 大村鈴田牢や長崎の桜町牢に捕われていた宣教師や司祭、修道士らと彼らを匿っていた人々を 1622年9月10日長崎の西坂に於いて、火刑、斬首により55人が殉教し元和の大殉教と呼ばれる処刑が行われました。

大村鈴田牢獄跡


 

 1626年、厳重なキリスト教徒弾圧が始まり多くのキリスト教徒が家を捨てて山に退きました。又、この年に踏み絵が考案され以後毎年正月8日に踏み絵をする事になりました。 1627年キリスト教徒の長崎居住禁止の令が出されました。
 厳しい状況で活動してきたミゼリコルディヤも、組頭が火刑で殉教し他の多くの会員たちも既に殉教していて長崎のミゼリコルディヤは創立50年で解散しました。
 幕府は長崎の貿易相手国をプロテスタントであるオランダと非キリスト教国の中国との貿易に限定し日本人の海外渡航を禁止しました。これにより貿易商たちは利益を失う事になりました。

出島の建設

 1636年、長崎の町中に居住するポルトガル人を、出島を築造し移住させ、又貿易商以外のポルトガル人や妻子287人をマカオに追放しました。
こうして、長崎の町からキリスト教徒は排除されました。

潜伏するキリシタン

 しかし、長崎の近郊には多くの潜伏するキリスト教徒がおり、仏教徒に偽装しながら洗礼の秘跡やキリスト教徒の教えが伝承されました。

 長崎とその近郊ではその後も、厳重な弾圧が続きました。宣教師追放令の後も宣教師たちは日本に残り信者の指導に当たっていましたが、幕府の迫害は厳しさを増し宣教師達は捕縛され殉教していきました。
 迫害の初期は、ある程度の拷問を行い棄教をしなければ斬首、火あぶり等で処刑していましたが 「キリスト教徒達は死ぬことを恐れず、殉教者と成る事を栄光と考えている。」と判断し、棄教させる事を目的としての拷問を始めました。その棄教を迫る拷問は凄惨を極めまた、様々な制度を作りキリスト教徒の検索、捕縛を強化し、また島原、天草の乱をキリスト教徒一揆としキリスト教が邪教であると宣伝しました。
 イエズス会やフランシスコ会等日本への潜入を幾度となく試みましたが、潜入直後に捕縛されました。 1708年 ジョバンニ・バッティスタ・シドッティがポルトガル船に乗り日本に潜入しようと試みるが直ちに捕縛され長崎で取り調べを受け江戸に送られ幽閉されました。これ以降1853年のペリー来航により1854年の開国、1859年幕府が開港した居留地での宣教師の入国を認めるまで、宣教師が日本に入国する事は有りませんでした。

大浦天主堂の建設

大浦天主堂

大浦天主堂

 1862年フランス外国宣教会宣教師フューレ神父が長崎に赴任し教会堂と司祭館の建設に着手しました。
 翌年プティジャン神父が長崎に着任。1865年1月24日大浦天主堂完成。二十六聖人殉教者堂と命名。フランス人礼拝堂として建設されました。そして2月12日、浦上の潜伏キリスト教徒が訪ねて来てキリスト教徒である事を神父に告げました。この様子は神父によって詳細に書き綴られフランス外国宣教会にもたらされ、教皇ピオ九世にも届いた。教皇は「東洋の奇蹟」と呼ばれました。

徳川幕府の崩壊と明治政府の弾圧

浦上4番崩れ

 しかし、この時日本は徳川幕府の治める時代で禁教令が解けている訳ではありませんでした。
長崎奉行所は内定を進め1867年7月15日早朝4ヶ所の秘密教会に一斉に捕縛に入り68名が捕縛され桜町牢へ収監されました。しかし、外国公使の抗議により適当な理由を付け釈放しました。
1867年、徳川幕府は倒れ明治政府が成立しましたが禁教令は解除されず再び3394人を捕縛し名古屋以西の各藩に流配とし改宗を迫りました。
禁教令は、1873年2月24日禁教令の高札の撤去まで維持され続けられました。

禁教令が解かれ自由信仰へ

 1873年2月24日禁教令の高札が撤去され、キリスト教徒は自由に信仰する事を得、長崎にも中町教会等の教会が建設されました。大浦天主堂には、浦上、外海、五島等に潜伏していたキリスト教徒が多数訪れカトリック教会に復帰しました。

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