郡崩れ発端から結末

仏の谷の神童

仏の谷の洞窟

 1657年10月11日大村の百姓兵作と言う者にが池尻理左衛門と言う者に、「郡村の矢次に天草四郎の生まれ変わりと言われる13歳の神童が現れキリシタンの絵を取り出し実に不思議な術法を説くもしお前様がその術に預かりたければ連れて行ってもよい」というような事を漏らしました。
 これが長崎奉行の知る所となりました。
 島原の乱が終わって約20年大村にキリスト教徒は誰もいないと思い込んでいた長崎奉行は驚愕し、直ちに百姓兵作を取り押さえ、大村藩主や藩の重役に書状をしたため大村へ送りました。

 神童の名を六右衛門と言います。彼の祖母が仏の谷の洞窟の中にキリシタンの絵等を隠し、ここを拠点に密かに布教していました。六右衛門は俗にいう狐憑きの状態になり言動が神がかり的だったので、布教の道具として使われた物らしいのです。

拡大する事件

 大村藩の驚きようは尋常一様のものでは有りませんでした。大村藩は兵作の家族、近親者を取り調べ又近隣の者も召し捕らえて、天草四郎再来の経緯を取り調べました。
 16日には41人の人々が捕われ郡一帯では収まらず松原村、萱瀬村、立福寺村、江の串村、千綿村と拡大し、長崎で捕らえた兵作を合せ、投獄者608人に及びました。数ヶ月の間の過酷を極めた取り調べは牢内で病死した者、78人に及び、墓を暴き信違を確認された者もいました。

根絶されるキリスト教徒

 厳しい取り調べの結果、釈放99人、永牢20人そして斬罪411人となった。大村藩のみでは手に余り大村131人、長崎123人、佐賀37人、平戸64人、島原56人と5ヶ所で一斉に斬罪する事になりました。
 1658年7月27日長崎より派遣された検使役人の立ち会いのもと、袋小路(現在の草場小路)の牢より街道を処刑場へと連行されました。
 途中現在の杭出津郵便局裏の墓地で妻子、縁者と水杯を交わし今生の別を告げました。別れの涙石は現在もその場所に存在します。

凄惨な処刑

  川岸に設えられた竹矢来の中、大村のキリスト教徒を根絶する白刃の音が鳴り響きました。篝火に映る水面はキリスト教徒の血で赤黒く染まり海辺の集落は潮と血の混じり合った匂いに包まれたと伝えられます。現在この場所と思われる場所に青銅のレリーフが建てられています。

斬罪所 郡潜伏キリシタン殉教群像

 処刑された者たちの首は塩漬けにされ獄門首として8月15日まで晒されました。現在松並公民館前にマリア像が建てられています。

獄門所跡のマリア像

 晒された首は現在の原口町のカトリストアー裏手に地中深く埋められたという。

首塚

 又胴体は桜馬場八幡宮の裏手に2つの穴を掘り埋められたという。

胴塚

事件の後

 この事件の発生は大村藩の存亡に関わる大事件として扱われ、人々は恐慌状態に陥り又、多数の働き手を失い田畑は荒れ収穫は大きく落ち込みました。
 その後大村藩でその取り締まりがいっそう厳格になり、キリスト教関係の遺物、墓碑等が徹底して破却されほとんど残っていません。心密かに信仰を維持していた人々はいましたが組織を作り得ずやがて、時の流れとともに消えていきました。こうして、大村藩の湾岸地域のキリスト教徒はいなくなりました。

今富キリシタン墓碑

 しかし、大村領浦上や、天領浦上地区、外海地区にはしっかりしたキリスト教徒の地下組織がありバスチャン暦という物を用い1年の祝日や教会行事の日を定め行いました。これらにより7代約250年に亘り信仰を維持しました。

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