浦上十字会の成り立ちと、お告げのマリア修道会

流配より帰還した人々の窮状

 明治政府による流配より戻ってきた浦上の信徒の生活環境は、惨憺たる状況でした。食べる物も無く住む家さえ無い者も大勢いました。
 長崎県より一人当り一坪の掘っ建て小屋を与えられ、流配より戻るときに官より与えられた僅かの銀子で粗末な食料を買いしのいだのです。農具もなかったので、荒れた畑の草を手でむしり陶器のかけらで穴を掘り作物の種を蒔きました。日の出とともに畑へでて日暮れまで働き1年、ようやく生活も落ち着いて来た1874年7月、長崎地方に赤痢が流行し、栄養不足で体力の落ちた信徒たちに、多くのの患者を出したのです。

長崎の救い人 ド・ロ神父

ド・ロ神父の像

 日本再布教を志願し来日していた青年宣教師ド・ロ神父は、毎日大浦から浦上に薬箱を抱え通い病人の診察と投薬を行い予防法を教えました。ド・ロ神父が救護活動を始めるとすぐに、岩永マキがド・ロ神父の手伝いを始め、マキが手伝いを始めると守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサ、も手伝いを始めました。彼女ら4人の乙女は流配を経験していました。
 ド・ロ神父は、信徒の中から患者への救護隊を編制し、患者の発見と隔離、予防措置、消毒に働かせました。浦上の乙女たち4人を看護婦にし、患者への適切な投薬を教え身の廻りの世話を頼み、彼女らの家族への伝染を防止するため高木仙右衛門宅の納屋に合宿させ、危篤の患者が出ると徹夜で看護しました。  赤痢に重なるように台風が襲来し朽ちかけていた家、バラックの掘建て小屋も倒壊し、田畑も流れてしまいました。
 浦上では非常に悪い環境の中患者210人死者8人に留まり翌年1月に収束しました。当時の赤痢での死亡率は30〜40%です。死亡率が4%に留まったのは奇跡的な治癒率でした。

修道会の始まり

岩永マキの像

 赤痢が終息すると長崎港外の陰の尾島で天然痘が流行しました。ド・ロ神父は赤痢に感染し寝込んでいましたが、快復すると先の赤痢のときの救護隊や、看護婦を伴い救護に当たりました。この時看護婦として働いていた岩永マキが両親を亡くした孤児タケを引き取り育てる事にします。ド・ロ神父は高木仙右衛門宅の納屋で合宿を続ける乙女たち4人の共同生活に規則を与え修道共同体に準ずるようなものになりました。

修道会の広がり

高木仙衛門墓地

 やがて、高木仙右衛門宅の納屋は孤児院となり各地から孤児が集まるようになり志を同じくする乙女たちも増えました。ド・ロ神父は、田畑を買い与え乙女たちが働いて孤児を育てられるようにしました。これらの孤児院に公的補助は、1909年(明治42年)まで無く、彼女らの貧しい生活の中で、必死の努力で働いて孤児らを養育していました。
 高木仙右衛門宅は浦上修道会となり、組織が大きくなると屋敷の全てを提供し、仙右衛門は修道会の雑務をして晩年を過ごしました。

浦上十字修道会から お告げのマリア修道会へ

お告げのマリア修道会

 この活動は県内各地や、県外まで広がり浦上修道会から各地に会員が出て行き孤児院や修道会をつくり、各地から浦上修道会に来て修練をして帰り、各地に孤児院や修道会ができました。
 岩永マキらの共同体は修道会の組織となり1877年、準修道会「浦上十字修道会」となります。この組織は女部屋と呼ばれ長崎県下23カ所に広まりました。この23カ所の共同体は統合され、1956年「長崎聖婢姉妹会」修道会、1975年「お告げのマリア修道会」となりローマ教皇庁直轄の女子修道会となります。現代日本で一番古い社会福祉事業と言えるでしょう。

福祉に生きた女性達

お告げのマリア修道会墓地

 岩永マキ、1920年1月27日永眠、享年72歳。彼女の枕元にはボロボロの着物が置かれていました。彼女の遺品は自分で布から織ったその着物だけでした。200人以上の孤児を養育し各地の「おんな部屋」の設立を助け、一生を福祉に捧げた人生でした。彼女の葬儀は浦上天主堂で行われ「こうらんば」の墓地まで約2kmに亘り人々の列が続いたといいます。彼女に続いた女性達は我が身を忘れて福祉に働きました。今彼女らは「こうらんば」墓地で安らかに眠っています。  

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